前回、開港当時から昭和初期にかけて今の中華街の場所に中華の飲食店街が出来上がっていく様をご紹介しました。

グルメ街としての中華街の次なる大きな転機は、昭和20年代です。
1945年(昭和20年)に終戦を迎えた時、中華街も一面焼け野原でした。終戦直後の華僑の数は525戸、1917人。そのほとんどが中華街周辺に住んでいました。 彼らの職業は多い順に、料理職281人、洋服職66人、理髪職14人で、まさに三把刀の職業が街を形成していたのです。なかでも群を抜いて多かった料理職が、ここから大発展していきます。

日本全土が食糧難と貧困に苦しむなか、連合国の一員だった中国は勝戦国のため、食料や物資が充実。料理の腕と食材が揃っている中華街では、はやくから炊き出しやバラック小屋での料理店営業がはじまります。戦前50銭前後だったチャーハンや五目焼きそばは、戦後15~20円に。それでも食糧難の時代、店には客が押し寄せ、日本人も外国人も関係なく多くの人の胃袋を満たしていったのです。警察の厳しい取り締まりの及ばない勝戦国の街だった中華街。この頃は「中華街に行けば何でもある」とまで言われていました。

そして、1972年(昭和47年)、日中の国交正常化とともにパンダフィーバー、中国ブームが訪れます。好景気のなかでグルメブームも巻き起こり、横浜中華街は食の街として注目を集めます。数々のガイドブックが作られ、細い路地にまで料理店が建ち始めたのもこの頃です。1976年(昭和51年)には、街の全業種の半分が中華料理店で占められ、横浜中華街は食の街として確立し、今では年間1900万人もの人が訪れる世界でも稀なチャイナタウンになったのです。

そんな激動の歴史のなかで、半世紀以上かわらず営業を続けている中華料理店も多くあります。わずか500m四方の区画にこれほど多くの老舗料理店が残る街は珍しいでしょう。そして老舗料理店の傍らで、街の味を支え続けている中華食材店や製麺所が脈々と営業を続けているのも、中華街ならでは。美味しいご馳走でおなかを満たした後、路地裏や街はずれの食材店を覗くのも中華街の楽しみです。